ちょっと前に夫が持ち帰った週刊現代(夫は、読む印刷物は、新聞と資格試験の参考書ぐらいという活字オンチ、だからこんなものを持ち帰ることは珍しい。)の「特選現代小説」内のイッセー尾形さんによる江國香織著「スイートリトルライズ」の書評の冒頭の部分。
洒落たコーヒー店で、若い女性の声が聞こえてきた。
「結婚のメリットって、恋人の選択肢が広がる事じゃない?」
結婚数年らしき女性のしっとりとした声に、僕は聞き耳をたてた。
「夫とだけじゃ、良い事ないもんね。」
聞いている女性も、所帯持ちのOLらしい。
「その男性の子供を産む訳でも、一緒に暮らす訳でもないからね。」
「タイプならいいって気軽さが一番よね。」
不倫とか浮気だのといった不潔感がいっさいない。あっけらかんと語られては、「結婚って、貞節を守る事じゃないのか」と思う僕はジイサマの範疇になったのかもしれない。
私もイッセイー尾形さん同様、バアサマの範疇の人間なので、こんなあっけらかんと自由恋愛のメリットについて語ることは出来ない。
だけど、なんとなく、分かるような気がする・・・
彼女らの言うとおり、恋愛関係にあるうちは、相手の将来性(職業や経済力や丈夫さ<笑)は気にならないが、いざ結婚となれば大きく影響してい来るという場合もあるだろう。
経済的に自立していれば、夫の経済力には頼らなくていいかもしれないけど、逆に養わなければならなくなる可能性も・・・。それに生きがいを感じると言うこともあるだろうけど。
夫の将来性は子どもの将来も左右するし、子どもの将来は回りまわって自分の将来に深く関わってくるのである。と考えるのが一般的だろう。
子どもを産むと言うことを念頭に置けば、血統や遺伝を考慮するということもあるだろう。
まぁそんな風にいろいろ気を配っても、人生何があるか分からないんだけど(笑)
結婚しているから恋愛をしやすい、と言うのに頷いたのは、そんな打算的な胸算用に納得してしまっただけではない。
不倫(と言う言葉は実はあまり好きでない。でも、結婚という契約のものではそう呼ばれても仕方がないと思う)をしたことのある人、あるいは配偶者に不倫をされた人の話を聞いたり読んだりすると、不倫をする人は妻(夫)に甘えているように感じてしまうことがある。
中には、間違った結婚をしてしまって、やっと本当に愛する人にめぐり合えた、なんて方もいるのだろうが、今の世の中多くのカップルはある程度の恋愛期間をもって結婚に至っているのだし、そんなのは例外中の例外ではないだろうか。もし仮に、「間違っていたのだ」と言う方も、あとから気づいただけで、はじめはそうじゃなったはずだ。
結婚生活、という単調で生ぬるい安全地帯に置かれている上でこそ、成り立つ恋愛、生まれる恋愛というのがあるように思う。
配偶者を、物分りの良い「親」のように思っているのかもしれない。
もちろん、発覚すればすったもんだ一悶着あるのだろうが、うすうす感づいていても、波風が立たなければそれでいいと、やり過ごしているカップルもいるのでは・・・
ある意味それは賢い選択なのかもしれない。
そんな形の愛もあるのかもしれないし。
それが良い事なのか悪いことなのか、私には分からない(そもそも人を好きなるのを止めることは出来ないのだから)し、仮に悪いことだとしてもどこをどう修正すればいいのか見当も付かない。
もしかしたら、これまでの結婚の形態に無理があるのかもしれないとも思う。
これから先、どんな風になっていくんだろう・・・
ただ、子どもたちに願うのは「自分を大切に生きてほしい」という事だけである。
GWで有り金使い果たしたので夏のボーナスまで貧乏生活に甘んじなくてはならない。
6月は、一年中で最も貧しい月である。
「男子バレー」
アテネ行きの夢は絶たれたし、フランスチームにも負けちゃうし、山本選手の顔も険しい。
それにしてもフランスチームのあのサーブには魅せられた。また得点されるのか?!と思いながら「もう一度視たい、もっと見たい」と思ってしまう。
私、細川ファンですから・・・・残念。
「仔犬のワルツ」(日本テレビ系列)
昨夜の課題曲は「ハンガリー舞曲第五番」だった。
アヤシゲなキャストによるアヤシゲなドラマが、アヤシゲに展開されていく・・・。
毎回気になるのは「ドランクドラゴン」の塚地武雄の鼻の穴である。
「書いているのだろうか?」
「エンタの神様」(日本テレビ系列)
青木さやかの演じるキャラは「ぜってぇしあわせになれねぇよな。」と思う。
「インパルス」がかなり好き。「ドランクドラゴン」のオタクネタも笑える。
日曜日。
「大改装!劇的ビフォーアフター」(テレビ朝日)
敷地十三坪の二階建て住宅を一千万円かけてリフォームするというもの。
この番組を視ていていつも思うのは、住まうのは心なんだなぁということ。
泣いちゃう人の気持ちが分かる、数少ない番組かな。
私と同年代女性の「匠」を良くお見かけするが、三十年前に設計建築を目指した女性って、先見の明があったよな~なんて思う。苦労しただろうなとか。
完成した家を見て長男曰く
「これって・・・大改造!劇的デストロイ アンド メイク じゃない?」
たしかに。
「極上の休日」(テレビ東京)
こちらでは今頃放送されているが、すでに終わった番組らしい。
青島幸男氏作詞の「ホンダラ行進曲」
♪ひとつ山越しゃ ホンダラッダ ホイホイ
もひとつ山越しても ホンダラッダ ホイホイ
越しても越しても ホンダラホダラダ ホイホイ
どうせこの世は ホンダラッダ ホイホイ
だからみんなで ホンダラッダ ホイホイ ・・・
太字部分を「越して行こうよ」と書き換えて、自ら書に認めたのを表装しておられた。
年を取るって、こういうことなんだろうなぁ・・・と、氏の顔に染み出た老人斑を見ながら思った。
朝一番で「歯医者さんの一服」を読ませていただいて、三十三年前に卒業した小学校を想った。
夫は地元出身なので子どもたちの先輩に当たる。校歌や旧校舎の思い出など、小学校の話題で盛り上がっていると、ちょっと寂しいときもある。
校歌は今でも覚えている。中学のも高校のも忘れたのに、初々しい脳に染み込んだのか、好きな歌だったのか。
目を閉じて、当時住んでいた家から学校までの道順を辿ってみる。
まず、門を出たら大きな桜の木の下の小道を抜けて、蕎麦屋の前を道なりに右に折れ、その後はまっすぐ。
途中、右手に高い生垣の大きな家があり、そこを過ぎると玄関前に藤の花のある家がある。そこのおばあさんは、そのときすでに腰の曲がったおばあさんだったけど、名前を「リカ」さんと言った。リカちゃん人形がほしくてたまらない私だったので、よく覚えている。
左側は、道より少し低い畑が広がっており、道の脇には雷が落ちた木のある家が建っている。
道幅が急に狭まり、両側が林になる。
林を抜けて突き当たりは産業道路、左方向は東武野田線の高架になっており、岩槻方面、右方向は大宮駅方面、こちらに進む。
いつも「おから」が缶に詰められて店の前に置いてある豆腐屋は、産業道路に面している。
産業道路にかかる歩道橋を渡り終えると交番がある。
交番の角を左に曲がると、両側は市営住宅が立ち並んでいる。卒業するころは鉄筋コンクリート建てになったが、それ以前は古い平屋の古ぼけた、同じ格好の木造住宅が軒を連ねていた。市営住宅には、同級生がたくさん住んでいた。
この道をまっすぐ行けば見沼用水路に突き当たるが、同級生のすごく太った女の子の家はクリーニング屋、その三叉路を右に曲がる。
実はこの後が曖昧である。こじんまりとした一戸建てが隣接して連なる住宅地を過ぎると、急に道幅が広がる。緩やかな坂道である。
両側うっそうとした高い木立で、その奥には大きなお屋敷があったような・・・。
坂道をそのまま降りてしまえば、さっき渡った産業道路に再びぶち当たる。
要するに、道路を迂回しているが目的の学校は産業道路と程近いところにあるのだ。
通学路は産業道路を一辺とした三角形を描くことができる。
しかし、v字に引き返すように道路をまた迂回すると、また同じような一戸建ての立ち並ぶ住宅地の中の道だ。
ここは「ピンポンダッシュ」のメッカだった。
200メートル位過ぎると小さな橋があって、その先しばらく道の両側に高い建物は無かった。空き地を整備していたのか、ブルドーザーやダンプカーやパワーショベルが点在している風景を思い出す。
六年間、ずっとそうだったはずは無いのだけど、いくら思い出してみても漠然とした景色が浮かぶばかりである。
家からここまでで、三分の二くらいだろうか。学校までは四十五分の道のりだった。
校区の端っこに住んでいたのだ。
空き地を過ぎると、今度はゆるい上り坂になる。
この坂道には白い木蓮の大きな木があって、花の時期にはかなり遠いところから花の香りが漂った。大きな木を見上げて、花の香りをいっぱいに吸い込んだ。
この木を越すとあと一息である。もうしばらく坂道を登って右に曲がると、学校の裏門の見える道だ。
この道のこともほとんど覚えていない。
たぶん、登校するときは疲れ果て、前方の裏門ばかり目指して周囲の景色など目に入らなかったのだろうし、下校のときは放課後の開放感で友だちとのおしゃべりに夢中で、やはり周りの景色に目を向けることが無かったのかもしれない。
小学校には三十年以上行っていない。
中学のとき一度、土曜の午後に訪れたことがある。すごく仲の悪かった男子「うっちゃん」に偶然出会った。
うっちゃんは一人で裏門近くの鉄棒のところに立っていて、気安げに「よお!」と言って笑いかけてきた。
うっちゃんと和解できて良かった、と思ったのを思い出した。
高校二年の長男が誕生日プレゼントにコンタクトレンズがほしいと言う。
彼は私譲りの近眼で、中学のころからメガネを使用するようになった。最近度が変わったので、フレームごと新調したのだが、見た目を気にするお年頃なのか、メガネがうっとおしいのか、しきりにコンタクトレンズをねだっていた。
メガネは医療用矯正器具になるのだろうか?それにしちゃ保険も効かないけど。
目の悪い人にとっては必需品なわけだけど、コンタクトレンズは絶対必要と言うものでもない。つまり贅沢品である。よって、誕生日プレゼントということにされてしまったのだけど、それにしては高額である。
島根県は県条例でコンタクトレンズは眼科医の処方箋の元、眼科で購入しなくてはならない。他の地域では驚くほど安い値段で出回っているようだが、こっそり利用するにしても、処方箋を出してもらわなくては度数も分からないし、なんだか不公平だなぁ。
誕生日はすでに過ぎたので、昨日連れ立って眼科を訪れた。
17歳にもなるのだからひとりで行けばいいようなものだが、未成年者は親の承諾が必要だし、親の知らぬところで最高級品など買って帰られたら目も当てられないから、しぶしぶ付いて行った。
私は自分が初めてコンタクトレンズを買ったときのことを思い出した。
ちょうど同じ高校二年のころだった。当時はまだ、コンタクトレンズを持っている高校生は少なかったので、どこにでも売れているというものでもなかった。
小遣いをためて、先に購入した友だちが、誰かを紹介すると特典があると言うので、何のご利益もなかったが協力した。そう、あの子は昔からそういうところ、抜け目ないやつなんだ(笑)
店は、高田馬場の雑居ビル内にあった。詳しいことは忘れたが「東京コンタクトレンズ」という事業社名だったように記憶している。
もちろん、親など同行せず、その友だちと連れ立って埼玉県からはるばる上京したのだ。
それに比べたら、我が息子の頼りないこと・・・。
と言うか、そういう時代なんだなぁ、というのが実感。子どもは完璧に管理されているか、とんでもなく突き放されている。
病院の待合で、看護士があらかじめ簡単な問診をすることがある。体温計を脇に挟みながら、病気の経過や、現在の気分、どこが痛いかとか、下痢はしているかとか答えるのである。
あまりに熱が高かったり、立っていられないほどの重症感のある人や、小さな子どもの場合大概付き添いの(主に)母親が答えている。
それが稀に、(いや、けっこう多い)大きな図体のひげの生えたような男子高校生の容態を、事細かに母親が代弁しているのを見かけて唖然とする。
「自分で言えよ。」
内心そう思いながら、このお母さんは読心術ができるのか!と、自分にはそんな才能が無いことを悲観したりする。
ごく小さな子どもの場合、語彙が少なく具合が悪く機嫌も悪く、自分の症状など人に説明できないだろう。
しかし、幼稚園に上がるころになれば、おなかのどこが痛いのか、ウンチは下痢なのか、ご飯は食べたのか気持ちが悪いのかぐらい、それほど加減が悪くなければ言えるはずである。
もちろん、内気で内向的で引っ込み思案なお子さんもいるだろうから、一概に言えないけれど。
眼科はやっぱり着いていって良かった。何しろ種類が豊富で、私自身が利用しているからアドヴァイスにも役立ったし、良い買い物が出来たように思う。(買ったのではなくてレンタルにしたが)
待合室で高級婦人雑誌を読みふけり、目の保養になったしね。
kasaさんの日記「日本人は薄情になったのか?」を読んで日ごろ感じていることを少し。
批判的精神は重要だ。それがないと、不公平や不平等がまかり通ったり、弱者が救われる余地が無い。
最近感じるのは、「批判」と「批難」を混同する人が増えているのではないか?ということだ。
これはどちらがどうと言うより、批判を受けているのを批難されたと感じ取ったり、批判すべきところを批難したり挙句の果てには誹謗して、それを「批判」と信じて疑わないというような。
私は国語に関して、特に詳しい知識があるわけでないので、批判と批難の明確な違いは分からないし、辞書によれば「類義語」になっているので、もしかした見当違いな感想かもしれない。
私の中では、「批判」は、それをすることによって(結果はともかく、また結果そのものが出る出ないに関わらず)何らかの成果を生み出す、あるいは生み出そうとするものであり、「批難」は感情の露出、これも必要なんだろうけど。
猫の出産で怖気づく私
くるみの妊娠に気づいたのは4月の中ごろだった。(詳しい経過は「くるみえにっき」で)
もともと野良猫だったのを妙な縁で飼うことになったのだし、後々のことを考えれば子どもは産ませない方が良いように思ったが、次男の激しい反発に負けた。一度だけ出産させて、それから避妊手術をすると言うことで合意した。
人間だってバースコントロールするんだし、くるみの意思は訊いてないけど、お互い仲良くやっていくためには譲り合わなくちゃならないこともあるよね、と言うことで。
何日か前から驚くほどお腹が膨らんでいたので、「こりゃー六匹ぐらい入っているかも!」と話していた。
この数週間は、ごろごろ寝そべってばかりで自分の体重よりお腹の方が重たいんじゃないか?と思うくらいだった。
朝、台所のくるみの餌場を見ると、キャットフードをほとんど残していたので「いよいよかな」と思った。お産が近づくと、物が食べられなくなるから。
くるみは、キッチンマットの上が好きで、台所をする私の足元で寝そべっていることが多いのだけど、今朝はやけにまとわりついて私の顔を見て鳴いている。
ふとお尻を見ると出血しているので「おしるしだ~~」と、ちょっと慌てた。
座るたびに、床やクッションに血が付いちゃうから^^;;
用意しておいたダンボールに古新聞を敷いたのに入れてあげて、廊下の隅の静かな場所に置いた。
だけど、一緒にいてあげると入っているのだけど、私が立ち去ると付いてきてまた足元で切なげに鳴く。
床が汚れるのは諦めて、忙しい私は時折声をかけながら朝食の準備をした。
するとくるみは、ソファの脇に放り投げてある、末っ子のランドセルの上蓋に鼻先を突っ込んで、中に入ろうとしている。
ランドセルの中で産むつもりなんだろうか?
7時過ぎ、夫を送り出してからダンボールに今度はさらに大きなダンボールの囲いを付けて、薄暗い場所を確保した。手だけ突っ込んで、お腹をさすってあげると、ゴロゴロとのどを鳴らした。
学校へ行く子どもたちが代わる代わる様子を見に来た。
時折、お腹がキューっと張る、いよいよ陣痛が始まったらしい。
間隔が不規則的なのでまだだろうと、用事を済ませるためにダンボールを離れた。
するとくるみは破水したようで、お尻から羊水を滴らせたまま私のそばにやってきた。
相変わらずのどをゴロゴロ鳴らしながら、頭を私の足にこすり付けて顔を見ては鳴く。
いよいよ出産が始まるのだ!
ダンボールに戻そうと思った瞬間、激しい陣痛が始まった。
もう移動するのは諦めて、ここで産ませてしまおうととっさに床に新聞紙を敷いた。
くるみは、寝転がったり立ち上がったり、のたうちまわってうなり声を上げた。新聞紙の上などに納まるはずも無く、床は血と羊水で汚れた。
私に立ち会ってほしいから、ダンボールから出てきたのだろうに、今は私が近寄ると「シェー!」と怒るのだ。
だけど、あまりに辛そうで苦しそうで、放っておくことができなくて、怒られながらもお腹をさすった。
くるみは思いっきり私の指を噛んだ。そうすることで痛みを逃しているのだろうか。
すごく頑張ったのに、羊膜の一部を露出させたままくるみのいきみは止まってしまったから大変だ。
想像を絶する痛みだったと思う。くるみは狭いリビングをのた打ち回った。次のいきみで産ませてしまおうと、お腹を強くマッサージする私の手に。また噛み付いた。
そこでようやく私は気が付いた。
くるみは、触れられたくないのだ。お産はたった一人の戦いなのだ。
「がんばれよ、がんばれよ」と声に出して、ただおろおろしていた自分が今思えば気恥ずかしい。
夫の心境とは、こんなものではないのだろうか。
8時半過ぎ、一匹目が誕生した。
ところがくるみは、さっさとへその緒を切ることも無く、生まれた子どもをぶら下げたままうろうろとリビングを歩き回っている。
へその緒は、私が切ってやらなくちゃならないのかしら?
友人が犬の出産に立ち会ったとき、へその緒を切ってあげたという話を思い出した。
だけど、あれよあれよと言う間だったので(というか忘れてて)はさみなんて用意してないし、第一怖くてそんなこと、私にはとてもできそうに無い。
私は三人子どもを産んでいるが、血を見るのは大の苦手で、本当に血の気が引いて足がすくんでしまうのだ。
しかし、このまま放っておいたら生まれた子どもは呼吸が出来ず、死んでしまうだろう。
どうしよう!私はすっかり怖気づいていた。
すると、くるみが子どもをぶら下げたままダンボールを目指しているのに気づいた。
片手でくるみを、もう一方の手で子猫を抱き上げて、そっとダンボールに入れた。
まもなく、か弱く初々しい子猫の鳴き声が聞こえた。
くるみは自力でへその緒を切り、羊膜を取り除いたらしかった。
私はホッとして、汚れた床の始末をした。
ダンボールを覗くと、くるみは目の玉を真ん丸くして警戒心をあらわにした。
私は、この先はくるみに任せようと思った。
弱気な私はどうせ何も出来ないのだし、邪魔になるばかりだ。
しばらくすると、またうなり声が聞こえてきた。第二子出産らしい。
またダンボールから出てくるだろうか?と思ったが、今度はすぐにうなり声は止み、代わりにまた初々しい鳴き声がした。
三回それを確認して、私は用事のために家を出た。
戻ってきてダンボールを覗くと、なんと!子猫は六匹、元気に乳を吸っていた。
くるみはのどをゴロゴロ鳴らしながら、気持ちよさそうに乳を含ませていた。
すっかり「母親」の顔だった。いつもより美猫に見えた。
たいしたものだなぁ・・・。
頭をなでると、手のひらに顔をこすり付けてきた。
母親になってもくるみは、やっぱり私の猫なのだ。
汚れた新聞紙を新しいものと換えて、くるみに水を持ってきた。
飲んだかどうか知らないけど。
日記じゃんくしょんで取り上げられたり、「お薦め」にしていただいてから、アクセスが急に伸びた。
このことに関してはとっても感謝しているのだけど、内心ビビッっていたりする。
もともと、ポータルサイトやランキングサイトやWebリングには登録せず、ネットサーフィンで新規開拓したり、お友だちリンクを辿って通っては掲示板に書き込みして、仲良くなってリンクして、そういう手作業でサイト運営してきた。
サイトの善し悪しもあるが、これと言って役に立ちそうな情報を発信しているわけでもないのだし、このような運営ぶりであれば急激にアクセス数が伸びることは少ないように思う。
日記才人に登録しようと思ったのは、素材配布サイトを立ち上げたとき、多くのランキングサイトに登録して、そのシステムに慣れたからだと思う。いや、ほぼ同時だったか・・・いずれにしてもそれ以前の私は、ランキングに参加するのには抵抗があったのだ。自分とは無縁の世界だと思っていた。
日記才人には、投票システムがあり、ユーザー登録をしている方はその日気に入った日記に対して投票することができる。これは、日記を登録している方で投票を受けるか受けないか是非を決められる。
基準があるわけではないので、投票のはっきりとした傾向はつかめない。
自分では気持ちよく書けた日記でも意外に受けなかったり、逆に「なんでこれが?」と思うときもある。
日記の内容に一貫性があり、比較的似たような傾向の日記を好む読者層をしっかりつかめば、たとえ数字は低くてもアクセス数と投票数に著しい差は出ないように思う。
自分としてはそれが最も理想的であり、居心地が良いように思ってはいる。
しかし、それはなろうとしてなれるものではない。とっても難しいのだ。
何しろ日によって気分がくるくる変わるのだ。
猫の目のような私なのだ。
アクセス数や投票数にこだわりすぎるのはどうか?という考え方もある。
徹底的にこだわってゲーム感覚で数字をupさせていくのもひとつの面白さだろう。才能があればやってみたいことのひとつだ。
残念ながらそんな才能も洒落っ気も無いのだけれど。
かと言って、数字にまったく関心が無いと言い切ることもできない。もしそうなら、どこにも登録しなで、以前のようにぼちぼちやっていくだろう。
そうは言っても、数字のために書くことはしたくない。(そんな器用な真似はできないのに違いないのだけど)
そのハザマで揺れている。
思いがけないアクセス数にビビる、意外に気の小さい私なのでありました。
(なんだかんだ言っても、楽しんでいるには変わりありませんけど、素材の方、いい加減に更新しなくてはなぁ。)
MTを設置したかったと言う理由でWebサーバーはロリポップでお借りしている。
それ以前は、すべてyi-webだったが今は素材配布サイトのみそこから借りている。
これには事情がある。今年はじめ秀和システムの下請けの出版業者から、4月刊行予定のHP作成マニュアル本の付録CDに、私の素材を収録させてほしいと依頼があった。その際、サイトのアドレスを記載すると言うので、3月までの契約のyi-webをやめてしまうと、せっかくの集客のチャンスを棒に振るので、もったいないけどもう一年、yi-webとの契約を続行したのだ。
だけどねーー’それっぽい本は、確かに刊行されたみたいだけど、メールを送ってきた担当者にメールしても、エラーになっちゃって連絡がつかない状態。
もしかしたらいっぱい食わされたのかも。本を買ってみれば確認できるのだけど、それも癪だしね。損害はyi-webとの契約金ぐらいで、それはその人には何の利益ももたらさないから、実質被害はなし、単なる愉快犯か?
ロリポップではさまざまなWebツールのサービスを受けられるが、アクセス解析も標準で使える。
アクセス解析は実はあまり興味が無かった。と言うか、必要無かったと言う方が正確かもしれない。PHPやCGIのスクリプトを借りて自分で設置することもできたし、レンタルもあるがそこまで関心が無かったのね。
この間「はてな」にアクセス解析についてどう思う?みたいな質問が出ててちらっと読んだけど、設置してみたことがある人が、設置しているサイトを嫌がる傾向があって興味深かった。
パスワードを入れないと見られないので公開はできないのだけど、この解析では、リモートホストは出ない(みたい)IPは出てるけど。
覗いてみて面白かったのは、検索語句。
自分では「日記を中心とした絵本のサイト」のつもりなのだが、yahooやgoogleから来る最も多い検索語句は「甲本ヒロト」続いて「ハイロウズ」、そのあともハイロウズの曲名(たぶん歌詞を検索しているらしい)や「真島昌利」が上位だ。
申し訳なかったのは「風が吹けば桶屋が儲かる」を検索してくる方が多いこと。たぶん、言葉の意味を調べているのだろうが、まったく関係の無い音楽の話題を書いた記事につけたタイトルなのである。
もし私が「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を検索して「ブルースとはアメリカミシシッピ州で・・・」なんて出てきたら、忌々しげに「戻る」をクリックするだろう。
ここはやはり、言葉の意味も書き添えておくのが親切と言うものだろうか・・・。
がしかし、瓢箪からコマ、と言うように、何が出てくるのが分からないのがWebの面白さでもある。辞書を引けば言葉の意味は一発で判るけど、無駄な知識を仕入れることは意外に楽しい。世の中に無駄なことなど何一つ無いのである。ということにしておこう。
また、「酢鶏」という語句も毎週いくつかヒットしてるのだが、これは私が「酢豚」の肉を鶏肉に代えて調理した料理に名づけた造語である。広い世の中には同じ言葉を考え付く人もいるということなのだろうか。一度読んだ方がどこで読んだのか忘れてしまい、検索しているだけなのかもしれないけれど。
(検索してみたら、酢鶏という料理名があった)
絵本で人気は「百万回生きたねこ」と「じごくのそうべい」だった。
他に上位に来るのは「ごみ屋敷」「旅げーたー」「白い液体」「世界ウルルン滞在記」など。
リンク元を見るといかに皆様のご協力あっての我がサイト、であるかしみじみと。
どうもありがとうございます。
NHK総合テレビ「課外授業 ようこそ先輩」5月23日の放送は、茨城県下館市立養蚕小学校にて、手品師のマギー司郎さんによる「おしゃべりマジックで強くなろう」と銘打った授業風景だった。
今朝は10時前に出かける予定があったのでゆっくりもできず、家事の片手間視ていたが、印象に残る番組だった。
マギー司郎さんは、貧しい家庭に育ち勉強ができない子どもだったらしい。17歳で上京しプロのマジシャンになるが、ずっと「食べていけない」生活だった。
ところがある時、マジックをしながらポロリと本音をこぼした。
「僕も大変なのよ・・・」
すると大受けしてお客は大爆笑、以来、ぼそぼそと茨城弁でつぶやきながらマジックをするという独自のスタイルを確立し、「食べていけるように」なったと話していた。
おりしも新学期、末っ子の学級通信の自己紹介欄にはおのおの「自慢できること、がんばりたいこと」が記載されている。
ウチの子ときたら「自慢できること」が「お金をたくさん持っている」だもんね、はずかしー!
彼いわく、「僕はなんでもできる」んだそうで、いまさら自慢することも無いと言うことか。
なんでもできるのは「自分なりに」なわけなんだけど。ノー天気なヤツである。
これに限らず、「自分の良いところを探そう」という試みは比較的良く行われているように感じる。
子どもを育てていると、悪いところばかり目が行きついつい、叱ってしまうことが多い。そうしては親子でしょぼんとしてしまい、何も良いことがないように思うが、そんな時、自分の良いところを書き連ねてみて、自信を回復するのは有効に感じる。誰でもひとつぐらい、良いところがあるものだし。
しかし、「だめな自分をさらけ出す」ことは、なかなかできないでいる。
他人の欠点にはよーく目が行くが、意外に自分に対しては甘かったりする。
また、現実よりよりよく人に見られたいという願望もある。
弱みを握られたくない、馬鹿にされたくない、そんな気持ちで、小さなうそをついたり、他人をこき下ろしてみたり、より弱い者を見つけて、安心していたりする。
他人の幸せを素直に喜べない自分にまた自己嫌悪・・・
マギー司郎さんは、子どもたちへの宿題として「自分のだめなところ」を書いてくるように指導した。
一人の男の子は「家と外では態度が違う。学校ではわがままを言わないけど家ではわがままを言っている」と話した。
するとマギーさんは「そういう自分に気づいてて、えらいね。」と言った。
子どもたちは好きなマジックを発表しながら「だめな自分」を級友たちにさらけ出した。
Web日記で、見えないことをいいことについついカッコいいことを書いてしまうことがある。
逆に、決して人には見せられない弱いところをさらけ出せてしまうときもある。
痛い系の日記が人気なのは、自分の弱いところをさらけ出しているその人に共鳴するからなのかなぁ・・・なんて、ふと思った。
本当に強い人というのは、自分のだめさも知っているのかもしれない。
昨日は中学校の今年度一回目の公開授業と、PTA総会、学年会、部活動保護者会が開催された。
次男は、小学校高学年あたりから「公開授業、来なくていいし。」と言うようになった。
長男にはそんなことを言われたことが無かったけど、他所では(特に男の子)よくそういう話を聞くので、ためしに理由を訊いてみた。
教育熱心な母親だと思われるのが嫌、らしい。
しかし私は教育熱心どころか、やることが無くて暇だとうるさいときに「なら勉強すれば?」と言う程度で、むしろ私自身の耐久許容時間を越して勉強している長男に「少し休めば^^;;」と同情するほどなのである。耐久許容時間は30分なんだけど^^;;;
公開授業には顔を出す私の目的は「ウチは放任じゃありませんよ。」という学校側への意思表示と、「ウチの子をいじめるやつは許さねぇからな。」と、睨みを利かせているつもりである。
まぁそれは冗談だが、同級生の顔ぐらい知っておいた方がいいし、本人は教室で目が合うといやそうな顔をするけど、友だちの中には何度もこっちを振り返って、小さく手を振ってくる子も居る。それが、茶髪のあんちゃんだったりするから、笑ってしまうのだけど。
途中所用があったので抜け出し、PTA総会が終わるころ再び会場に来ると、総会は長引いてまだ終わっていなかった。
前に立ってマイクを持って話しているのは、どうも保護者(父親)のひとりらしい。
まったく話が見えていないので、注意深く耳を澄ませると、今現在二学年に在学中の、いじめを受けている女子生徒の父親による、全保護者への訴えのようだ。
勇気のある人だなぁ・・・と感心してしまった。
それも、感情的に訴えかえるのではない、冷静さを失うまいと堪えている様子だ。
娘さんは度重なるいじめのせいでとうとう教室に入れなくなり、現在は保健室登校をしているとのことだが、そんな目に遭ってもひとつも「恨んでいるようすがない」むしろ「いじめている子どもたちを救いたい気持ち」を「自分のような者が偉そうに」と謙虚に表明しながら、「娘さんが不憫でかわいそうで仕方が無い気持ち」を切々と語っておられた。
こんな話を聞いている一部の保護者の関心事は「どこの地区のどこ子?」なんだから、もうどうしようもない、って感じなんだけど。
子どもは親を見て育つのさ。
だけど、こんな風に他人を「馬鹿な親」と決め付けている自分自身も、ずいぶん思い上がってる。
一番危ないのは、その方も言っていたように「自分だけは大丈夫」なのだから。
おりしも前日、ウチの子のスリッパ紛失事件が起きたばかりなので、いろいろ考えた。
その後一年保護者会において、生活指導の先生から新入生の生活状況の報告があった。
すでにいじめが発生しており、学校側はできる限り対処するが保護者の方も、些細な情報やきっかけでもかまわないので気軽に相談してほしいとのことだった。
だけど、と私は思う。
いじめられているという感覚は主観的である場合もある。つまり、ちょっと仲間はずれや意地悪をされた子が、必要以上に落込んでしまうのね。
こういうことは昔からあったし、それでもどうにかみんなちゃんと大人になる。
いや、そんなものじゃないのだ、人格形成に影響するほど、その後の人生に関わるくらい、もっと奥が深く恐ろしいのだ、と言うのなら。
そんな重大なことを、授業の傍ら片手間で解決できるわけが無い。
そのために、最近は民間ボランティアによる「スクールヘルパー制度」と言うのを取り入れている学校が増えているらしいが、ボランティアに頼るのと言うのも、お粗末に感じる。
(そもそも、民生委員をはじめ、民生ボランティアと言う立場は、何処まで役所の仕事に関与しているのか曖昧で、守秘義務など守ってくれるのか、今ひとつ信頼できない場合がある。ボランティアをすることは立派なことであると言う認識の基、それを行う人まで「立派」であるような勘違い、社会的弱者を相手にすることが多いボランティアは、そこでは常に強者でいられるわけだから、一方的な支配に陥りやすい。私が生活のうえで困ったことを相談するなら、「近所の立派ないい人」より「公正さを持った司法の専門家」を選ぶだろう。)
社会問題とまで言われるならば、もっと予算を組んで専任の専門家を送り込むべきだろう。
教員と対等に話ができる身分であり、教員とも生徒とも利害関係の無いことが条件。
目標があって、人間性が優れていなくてはいけないのだけど、そういうのってどうやって量るんでしょ。
そういうエキスパートを育てるべきだと思う。
次男といじめについて少し話した。
「なんでいじめる人が居ると思う?あなたなりに」
「ヒマなんでしょ。やることが無いから、そんなことをして喜んでいるんだ。」
「あら、あなた、友だちがそうなんでしょ?」
「ある意味言えるね。Oは目標が無いから、ヒマなんだ。」
「いやーーん、私の日記読んだの?」
「読まねぇよ、そんなもんーー#」
一年保護者会の後は、陸上部保護者会に出席した。
新しい陸上部顧問の目標は
日本一になろう
取り合えず次男の目標は、市総体の出場権を得るために「A標準クリア」である。
【訂正】
専任を 選任 としていました。ご指摘ありがとうございました!重大ミスでした。
昨日夕方、次男(中)の担任から電話が入った。
何でも、今朝次男が登校すると、昇降口にある自分の下駄箱に上履き(こちらではツッカケ)が無かったらしい。
次男から相談を受けた担任はとりあえず学校のスリッパを履かせ、朝の職員会議の後手すきの先生方と探したところ、三年生の下駄箱の一番下にきちんと入れてあったと言うことだった。
状況から、何かしらの都合で履物(上履き)が必要になった生徒が、適当に履き不要になったのでこれまた適当な場所に戻しておいたのだろうと推測しておられた。
万が一いじめや嫌がらせだった場合、校舎の隣に流れている川やゴミ箱に捨てられるケースが多いのだと言う。
私が中学のころに、ある下級生の男子生徒の上履きが無くなり、放課後先生方が探しておられた。ふと、職員室の外の植え込みを覗くと、それらしいものがみつかった。その時は明らかに誰かの嫌がらせだった。
そんなことを思い出し、たぶん先生のおっしゃるように前者のケースだろうとほっと一安心した。
この中学では、傘も教室内持込みである。体操服や、呆れた事に弁当まで、他人のものを勝手に使って、後は適当なところに投げ捨てる生徒が後を絶たないらしい。
また、校内ばかりでなく、自転車も近所の店の買い物客が鍵をつけたまま駐輪しているのを、勝手に持ち出し、自分の目的地で乗り捨てる生徒も居ると言う。
本人は「ちょっと借りた」つもりなのだろうが、黙って持ち去れば明らかに窃盗である。
こういうことをいったいどう思っているのか・・・
次男はこういう目に遭ったことがこれまで一度もなかったので、涙が出たらしい。
隠されたと仮定したのか担任が心当たりを聞くと、友だち関係もうまくいってるし、誰かとトラブルを起こした覚えも無いと答えたらしい。
が、たったひとつ、保健係である次男が、内科検診の準備のために保健室に出向いたとき、新入生の故入り辛くてそっと室内を覗き込むと、居合わせた三年生と目が合ってしまい「何見てるや」と、脅されたことがあったらしい。
目が合って脅されるとは、まるでやくざの世界である。
私は、次男が入学してから時折話す「学校のこと」を思い出した。
同じクラスに、小学校の時からいじめを受けている女生徒がおり、自分の最も仲の良い友だちがかまうのをとても気にして私にうったえていた。
「やめろ、って言えば?」
「言うけど、聞いてくれんに。」
「おれさぁ、なんでMさんがいじめられるかわかんないよ。おとなしくて無害な人なのに。」
おとなしくて無害なのが気に入らないとでも言うのだろうか・・・
ひよこを甚振る猫のようなものなのかもしれない。
ひょっとしたら、庇い立てするのを逆恨みされたか・・・
いやな考え方だがありえないことでもなさそうだ。
何しろ、「常識」が通用しないのだから。
このことを同じ中学に通っていた高校二年の長男に話すと、だから俺は平和な学校に行きたかったのだ、と自分の進路選びのときの話しをした。
自分は特にいやな目には遭わなかったが、そういうことは日常茶飯事で、被害に遭わないようにトラブルに巻き込まれないように、少なからず気を使っていたらしい。
進路を選ぶとき、学力第一主義の進学校を目指したのも、その学校に通っている人から「平和だよ」と聞いていたからだ。
学力が低いから質が悪いと言うわけではない。
今の中学生が見失っているのは「目標」なのではないのかなぁ、などと、ふと、思った。
今朝、元気に登校した次男だが、再びこのようなことがあれば、黙っているつもりはない。
先日「嫌い嫌いも好きのうち」でタレントの井上和香さんについて書いたが、それについてkasaさんよりkasa's legitimate squareのdiary2004年5月4日(火) 巨乳嫌いな女性に対していかがでしょうか?との問いかけがあった(kasa's legitimate square5月19日NEW READ)
翌日にも「巨乳という言葉について」書いておられて「ほー!そうなのか!」と感心することしきりな、私。
COLUMNの「巨乳は馬鹿じゃない」も併せて読ませていただいた。
頭脳明晰な方というのは、「乳」についてこんな風に分析するものなんですね。
(関係ないですが、私はこちらの壁紙を見るにつけ「ホルスタイン」を連想し、牛の体内にいるような気持ちになる。とても居心地が良い)
詳しくは日記をお読みいただくとしてkasaさんは、
男性ほどではないにしろ、女性も巨乳にコンプレックスを持つ傾向が有り、「巨乳は馬鹿だ」という誤った認識を持ちたがる
と、結論付けておられる。
意地のわるーい更年期直前の私が、さらに推察いたしますに。
kasaさんがCOLUMNで書いておられる
「巨乳というのは女性の性的魅力を大きくしている。動物的本能からすると巨乳な女性は格が高いのだ
と言うことはつまり、動物的本能からすれば、貧乳の女性の格が低いと言うことになる。「格」と言うのは、この場合「子孫を残す」と言うことを最善としてなんだろうね。
要するに、乳が小さい女性は結婚相手(結婚とは限らないけど)にあぶれる可能性が、乳の大きい女性より高まりそうである。
コンプレックスもあるだろうが、根底にもう少し重大な危機感があるんじゃないのかなぁ。
井上和香さんのように、好感度も良かったりすると、ますます自分たちが選択される領域が狭まりそうだし。
それで伝統的な俗説「巨乳は馬鹿」を持ち出してきて、もっともらしい「嫌いな理由」にしていると言うわけ。
それにしても、女性は社会的にも経済的にも自立している方が増えてきているらしいけど、変わらない人もいるんだぁ、と言うのが率直な感想。
少し安心だったりするけれど(笑)
ちょっと考えたのだがやはり追記しておいた方が良いかもしれない。
kasaさんもおっしゃっているように、現実の男性は乳の大きさばかりに捉われていないし(スレンダー好みの方も居る)、女性もほとんどの方は拘っていないと思う。
週刊誌の編集側で、少ないサンプルを大げさに書き立てて仮説をいかにも真実のように書いているのかもしれないし。
どっちにせよ、絶対数はバスト90センチ以下が多いのだから、安泰である。
お互い更新日記から、キャラメル研究所の「ツキアイゲノム2」をやってみた。
以前一度やった記憶があり、今回で通算三度めになるがすべて結果はCOOLだった。
このタイプの特徴は・・・
・基本的に『なんかえらそう』です。
・奔放で独創的。で、少しわがまま。
・ふやーっとモノを考えるのが好き。
・どっかでヒトはヒト、自分は自分と割り切っているタイプオモテゲノム COOL
ヒトはヒトカモメはカモメ。わりきり系のコミュニケーション《主な特徴》
私は私、ヒトはヒト。自分だけの世界観を持つ人です。
「みんなと同じ」であることに価値を感じず、自分の個性/信念に基づいて行動します。
ある意味、オトナ。自分だけの世界観とか言うと頑固に聞こえますが意外にそうでもありません。
よくしゃべる相手には聞き役、社交が必要なときは当たり障りのない話と相手に応じたコミュニケーションをすんなりと操ることができます。
こうしたスムーズなコミュニケーションも「ヒトと自分は別なモノ」とわりきれているからこそ。周りのヒトが反論や批判など強い意見を言っても、心の中ではそれほど動じません。
もめ事も少なく、さらりと会話をこなすタイプです。
ふーーん、そうなのか。
たしかに、わりきり型のコミュニケーションというのは当たってるように思う。
自分だけの世界観とか言うと頑固に聞こえますが意外にそうでもありません。
よくしゃべる相手には聞き役、社交が必要なときは当たり障りのない話と相手に応じたコミュニケーションをすんなりと操ることができます
これはどんぴしゃり。
クールな人というと、無愛想な人をそう呼んでいるように感じるが、無愛想な人というのは意外にホットだったりするのだ。
そういう意味では、愛想の悪い人は損をしているように思う。無愛想なうえにクールなら問題ないだろうけれど。
周りのヒトが反論や批判など強い意見を言っても、心の中ではそれほど動じませんなのは、ただ鈍感なだけだと思っていたのだけど^^;;
この手のテストでは設問に対して
全然あてはまらない
あてはまらない
どちらともいえない
あてはまる
とてもよくあてはまる
この五つのチェック枠があることが多い。
私の場合、チェックが最極端に触れることがほとんど無い。大体真ん中か、その両隣どちらかになる。
チェックする際にいろいろ考えてしまって、たとえば
気持ちが表面にでやすいほうだ
と言うのは一緒に居る相手によって違うしなぁ・・・なんて少し考えてしまう。
また、
自分の考えを人に押し付けることがある
なんて自覚している人がいるんだろうか?
誰が見ているわけではないから正直に書いているつもりだが、「そうでありたい自分」と、「ほんとの自分」が、案外入り混じっているかもしれないよなぁ、と思う。
受け入れられない結果じゃなかったので良かったのだけれど(笑)
「今日はこのタイトルで行こう」と決めたら新着に同じタイトルが!
はりねずみのつぼやきさん、接点は「千葉県」だけだが、黙ってタイトルをパクルのは忍びないので・・・。
美容院で待ち時間に渡された女性雑誌を読んでいたら、(詳しく覚えていないが)「不人気女性タレント投票」の結果が掲載された記事があった。
最近はよくテレビを視るようになったが、タレントの名前を覚えるまでには至っていないので、掲載されている顔写真を見ても誰が誰だか分からない。
記事と照らし合わせながら「ふーーん、この人が不人気女性タレントなのか~」と、暇つぶし。
私はプロミスのCMのワカちゃんこと、井上和香さんが好きなのだがどうも女性には不人気のようだ。なんでだろ?と理由を探ってみると、胸が大きいのが原因らしい。
偶然夫が持ち帰った「週刊現代」にプロフィールがあったが、上から90、60、90と言う見事なナイスボディ、身長が157cmで、かのマリリン・モンローとほぼ同じなのだそうだ。
でも、このサイズだとウェストが太くならないように注意しないと、ただの「デブ」になる可能性もあるなぁ。
CMでは、制服姿なので胸まで目が行かなかったのだが、胸が大きいとなぜ人気がないのかさらに記事を読んでみた。
胸が大きいと頭が悪そうであるとか、いやらしいとか、その割りに態度が可愛い子ぶっていて不快だとか、ぼろくそである。唇にも言及していたなぁ・・・。
長男は、CMを視ながら私がいつも「可愛い。可愛い」と言うので、「どこが?俺、全然思わないけど?」と冷ややかな目つきである。
お年頃のせいだろうか「胸」には触れないけれど・・・あいつはなっちみたいな発育不全ぽいのが好きなんだ。
おっと、発育不全ぽいはNGだ。
思えば芸能人というのは、人々のストレスのいいはけ口になっているよなー
ワカちゃんみたいな女の子はそこここに居るだろうが、いくら気に入らないからって、頭が悪そうだとかいやらしそうだとか、普通は言わない。
胸が大きいから頭が悪そうというのも、ずいぶん飛躍している。
単純に「胸のデカイ女は嫌いなんだ」と言ってくれれば、どんなに気持ちがいいだろう。要するにぃ、ひがんでるんでしょ?と突っ込めるし(笑)
まぁこれも、勝手に大きな胸が良いことであるという偏見の下にある突っ込みな訳だけど。
人ってのは、自分を正当化するために、とんでもないところから「理由」を持ってくるもんだなぁ、と一冊の週刊誌から。
ちなみに、現在人気の女性タレントは黒木瞳さん、仲間由紀絵さん(実は大ファン)、山口智子さんなど(覚えているかぎり)
しかし、編集部曰く。
現在人気絶好調のタレントは、その後バッシングを受け人気が急下降する可能性があるそうだ。
また、不人気投票ワーストテン入りしているタレントたちは、少なくとも人々の関心を惹きつけているに変わりはない。
嫌い嫌いも好きのうち、嫌われるのも人気のひとつなのである。
【訂正】^^;;;
井上和香さんの出演しているCMを「アコム」としていました。プロミスに訂正します。
「トリビアの泉」視てて、あらら^^;;と(笑)
アコムも子も可愛いですが。
朝からカウンタが見る見る上がるのでなんでだろう?と思ったら、日記才人の掲示板日記ジャンクションにryu_seiさんからのメッセージが届いていたのだった。どうもありがとうございます。
それにしても、日記ジャンクションによるアクセスアップの威力はすごい、日記才人IDをお持ちでない方も倍以上お越しいただいているようだ。
また、意外なところでも自分のサイトの文中リンクを発見(これはどちらの方のリンクだか見逃してしまった)、今日のトリッチ・トラッチのアドレスは、管理人の知らないところをあっちこっち旅していたようだ。
しかし、前日のryu_seiさんはこんなこと(紹介先から飛んでくる読者について)を書いておられてて(笑)
なるほど、肝に銘じましょう。
素材配布の方でクリスマス企画の時に600/日アクセスいただいたことがあるが、12月25日を過ぎてから見る見る落ちて可笑しいほどだった。季節ものだなぁとつくづく。
素材のような「気持ち」に左右されないコンテンツでは、アクセス数の落差はそれほど気にならない。
まぁ私の場合、自称五年めの初心者であるけれど、新人とは言えないトウの立ちようでもあるし。
台風が残してくれものもあるだろうし、なおいっそう精進いたします。
そしてさっき、kasaさんの文中リンクのデメリットを読ませていただいたところ、文中リンクありがとうございます。
文中リンクの困ったところについて、別の方も日記に書いてくださった。
引用して要約すると、第一に「読まれたくない読者」の存在が広がる。第二に「違う受け取られ方で文中リンクをされてしまうこともある」の二点であると言う。
こちらも「なるほど・・・」と頷ける。
日常日記を書く方の中にはアクセスアップに捉われず、自分の記録としてぼちぼち気ままに書いていこう、そんな中で共感してくださる方がいればそれでよし、と言うスタンスの方も多いように感じる。
私は情報公開がWebの基本と書いたが、コンテンツが自分自身なら情報はプライバシーそのものである場合もありえる。
もともと他人の日常に突込みなど入れる余地などないのだが、読者が広がれば必ずしも好意的でない方も現れ、突っ込みはまったく価値観の違うところからいくらでも入れられるし、それに対応するのも時間や気持ちに余裕がなくてはできないだろう。
またkasaさんが書いておられた文中リンクのデメリットの「サイト間の意見交換には掲示板の活用」はもっともだと思うが、掲示板での意見交換も限界があり、言葉尻の取り合いになり論旨がずれるなどデメリットも多い。意見は自分のサイトで書いた方がよいと言う考えもある。
おしゃるように、臨機応変に流動性を持たせれば良いだろう。
そこで今ちょっと考え付いたのだが、日記才人には「投票」「マイ日記」「コメント」「メッセージ」の各種ボタンがあるが、そこに「文中リンク」を付け加えたらどうだろうか?
取りあえず、初期値では設置した場合「yes」「了解を得てからok」の二通り選択できて、「no」の場合は設置しないこととする。
ご一考ください。(って読まれているかしら^^;;)
「もっともっと文中リンク活性化させませんか?」に、一票!で、さっそく文中リンクさせていただきました。
基本的にWebは情報公開の場だという考え方を支持している。
これだけたんまり情報が満載されていれば、知りたいことのほとんどを検索して知ることができる。
私が日記サイトの管理者に求めるのは、知っている情報の在り処を広めることと、それについてどう思ったか、自分なりの考えを述べていただくことでもある。
だから知っている情報を惜しみなく分け与えてくれるようなサイトが好きだし、自分もそうでありたいと思う。
日記のポリシィについて昨日書いたが、かってないアクセスをいただいた。
これは一時的なものだろうが、亀のような歩みではあるが一年をかけて着々とアクセスを増やしてこれたのも、文中リンクをしていただいたことによる力が大きい。
自分はまだまだであるが、このアクセス数を〈未知数〉の方に還元できたらとても幸せに感じるだろう。
日記才人に登録したのは最近だが、サイト運営は丸四年を越した。五年目でもこの程度、には違いないけれども。
当時のチャット仲間のバックアップあってこそ立ち上げられたようなものだが、あのころからのお付き合いの続いている方はごくわずかだ。
そのメンテナンスに手をつけるのが恐ろしいほど、リンクペイジは虫食いだらけに違いない(ってどうにかしろよ)
私は自らリンクの申し入れをすることはほとんど無い。ほとんど無かった。こんなサイトをリンクしてくださるという申し入れには喜んで、相互リンクさせていただくという形を取らせていただいてある時までやってきた。
ところがある時、すごく人気のあるテキストサイトさんをどうしてもリンクしたくなった。
おずおずと片思いリンクの申し入れをすると、その方はごく自然に相互リンクをしてくださった。
有名サイト名の並ぶ中にポツンとある私のサイト名。気恥ずかしいようなうれしいような・・・
その後、『音楽と私』のペイジをつくるのにどうしても音楽関係の記事を書いているサイトさんの文中リンクの必要があり、リンクをお願いした。
大手さんはリンクの申し込みも殺到するのだろう、相互はお断りという方がほとんどで、うちでリンクしてもあちらには何のメリットも無いのだから、当たり前のように思った。
それでも、お友だちリンクという形で適当なところに入れてくれる方も居た。
このように、リンクに掲載するという事に関してはさまざまな思いもあり、Webが水物であることを考えれば、リンクは未来永劫し続けるものでもないように感じる。
にも関わらず、一度リンクしたサイトを削除するのはどうにも気が引ける。
話を元に戻して、日記を書く際にネタに困ることがある。困ったら義務じゃないのだから書かなければいい。
そんな時巡回していて「おお!」と思うような日記にぶち当たる。その日記を元にあれこれ考えて、それを今日のネタにしよう、ということがけっこうある。
また、世の中で起きていること話題になっていることは、意識しているいないに関わらず自分にとっての関心事でもある。ネタがかぶることは往々にしてあるし、人が考え付くようなことにそれほど違いがあるわけでもなく、なんとなーくパクッっては申し訳ないような気分で、そのネタは諦める、という場合もある。
そんなとき、気軽に文中リンクさせていただけたら、ありがたいなぁと思う。
という訳で、今後はどしどし文中リンクをしていきたいと思っているので、皆さんどうぞよろしくお願いいたします。
日記才人がアンケート調査をしているらしい。らしい、って、私も参加できるんだよなぁ、他人事じゃないんだ。
さっそく「雑談掲示板」に入ったログを拝見したり、朝一番で才人を巡回して感じたこと。
いろいろな人がいて面白いなぁ・・・
マイ日記は十人十色である。超人気サイトさん、私と同じ専業主婦の方、専業主婦大嫌いな若者、日ごろの生活の中ではお近づきになれないような職業の方(いろいろな意味で)、ワーキングマザー、育児真っ最中の方、ただ猫が好きな方、優しい大学院生、Hな同年代男性、正体不明な方etc・・・
今気づいたが、年代だけに限って言えば10代と、20代未婚女性というのが皆無だった!でも、それはただプロフィールで明らかにしていないだけかもしれない。
私自身はどこにでもいるような(自分が思うに)ごく普通の専業主婦なので、書くことも考えることもそこらあたりが基準である。
同じ専業主婦でも、同じ毎日ではない、それがすごく面白い。
経験したことがない職業や立場の方の日常や、意見を読むのも、すごく面白い。
プロの方なのか?と思うようなエッセイや創作日記も、すごく面白い。
一口に「Web日記」と言っても、ポリシィやコンテンツはさまざまである。
私はこの「トリッチ・トラッチ」の他に「日常」と「くるみえにっき」を登録させていただいている。
はじめは「トリッチ・トラッチ」だけだったが、もっと気楽な日常を話し言葉で書いてみたかったので、「日常」をサイトのトップペイジに置くことにした。
「トリッチ・トラッチ」では、もう少し掘り下げて、自分の意思みたいなものを表現していきたいと思った。
だから「トリッチ・トラッチ」はどちらかと言うと、自分のためのコンテンツである。
「日常」では、(実はその割りにうまくいっていないのだけど)自分なりに誰かの役に立ちそうな情報を提供したり、クスッと笑ってもらえるような短いエピソードなど、「読む人を意識して」書いているつもりだ。
こんな風に分離することによって、気分的には安定した。
私に(卑下しているわけではない、謙遜でもない自分が思う事実)これと言った興味深そうなことや、人をうならせるようなことが書ける訳ではない。
「トリッチ・トラッチ」の「日常」との線引きがどこなのか、曖昧である。
自分としては、日常の出来事から感じたことや考えたこと、そこから発展させて世の中で起こっていることと自分自身や自分の生活との関わりから、私はこう思うんだよ、ということを書いているつもりだ。
それは稚拙でありきたりで、舌足らずで笑止千万かもしれないが、考えることをやめてはいけないよなぁ、と思う。
書かない人言わない人が考えていないと言うことではない。
要するに「黙っていられないたち」なのである。
外側に出力すれば、反応もあって必ずしも良いことばかりではない。反応は、表に出されることもあれば、私の知らないところで密かに起きている場合もあるだろう。それを請け負わなくてはならないという覚悟もある。
「トリッチ・トラッチ」をトップから下げたのは、「いやになったらいつでも書くことをやめられる」ように先手を打ったということもある。
「日常」は日常以外の何者でもないが、私にもポリシィがある。
「トリッチ・トラッチ」は「内面的な日記」であるが、「日常」とも共通する私のポリシィ。
それは「すべてをさらけ出さない」ということ。
おりしも、お気に入りの日記「われ思ふゆえに・・・」で小町さんが書かれておられた。
小町さんとはまた、少し違うが(小町さんのコンテンツは文章そのものであるので)自分の中で「書いていいことと、書かないこと」ははっきりしている。
前々から書いているように、一線を引く、Webに限ったことではない。
「雑談掲示板」に寄れば、「日常」日記の位置づけをもっと上げよう!と何か企画を企てているらしい。
「日常」日記の位置づけが低いのかどうか考えたこともなかったけど、今後の日記才人の動きに注目している(って、やっぱり他人事)
お気に入りサイト「ねこくん達の何気ない日々」さんが閉鎖になる。
もうあの美猫てんちゃちゃんと茶々丸ちゃんに会えなくなるのかと思うと、なんだかとっても惜しくなった。寂しさもあるが、いざ閉鎖と聞くと思っていたよりずっと、毎日彼女らに会うことを楽しみにしていた自分に気づく。
以前トリトラに、写真を撮ってもらうときは、自分を愛してくれている人に、と書いたことがあるが、しゅがーぽっとさんの撮る彼女たちの写真は、愛情と慈しみに溢れていた。
美しい二匹の猫のさまざまは表情はそれだけで十分心癒されるのだけど、短いセンテンスの日記から、人間以外の口のきけない生き物と心を通わせて暮らすことの切なさや、ささやかな幸せや悦びを感じていた。
薄い木綿のカーテンごしに差し込んだ午後の日差しに包まれているような、甘く終わりのない時間に、夜更けに幾度となくまどろみ、癒されていた。
過去の写真を追いながら、メールでどれか二つ、写真をいただけないかしゅがーぽっとさんにお願いしてみようかと思いついた。
それより、写真集だけでも残していただけないかなぁ・・・と思った。
しかしそれは違うのかもしれない。
二匹の猫としゅがーぽっとさんとの、繰り返される日々そのものが「ねこくん達の何気ない日々」なのであり、停滞したそれはもはやそれではない。
出版物の中では永遠に時は流れない。
でも、流れ過ぎ去ってしまう日々だからこそ、その刹那さに酔い、追いかけるほど逃げるようにつかまらない「情報」への飽くなき恋慕と軽い焦燥感への苛立ちと、ボタンひとつですべてを終わらせることのできるWebの儚さに、私たちは心惹かれて止まないのではないだろうか。
いつか再びきっと、てんちゃちゃんと茶々丸ちゃんと愛すべきねーちゃん、しゅがーぽっとさんにお会いできる日の来ることを願っている。
長い間お疲れさまでした。ほんとうに、ありがとうございました。
【訂正】
しゅがーぽっとさんを初め、シュガーポットさんとカタカナ表記していたので訂正して、お詫び申し上げます。
長男の通う高校の、PTA総会の後の学級懇談会に出席した。
総会は、同じ時刻に次男の家庭訪問だったので(それに会計報告とか、眠くなるし)失礼して、学級懇談も少し遅れてしまった。
二年生の長男の今度の担任は、化学の先生なのだそうで白衣を着ておられた。ご出身が関西なのか長い間住んでおられたのか、軽い関西弁の訛りがある。
ある時長男と学校のことについて話したときのこと
「担任の先生めっちゃいいし。化学だし、関西弁で聞きやすい。」
「ふーーん。そうか、関西弁のイントネーションは耳にやさしいかもね。」
「(関西訛りを真似て)1molの気体の体積は気体の種類によらず一定である、この発音どおりに覚えてる。」
「あ、そうか~試験で答えを書くのにそう頭に思い浮かべるんだ?」
「そうそう(笑)」
歌を歌うような感じなんだろうか?一定のリズムがあるとしたら、数式の暗記などに役立ちそうである。そんな覚え方がいいのかよくわからないけれど。
長男たちの世代は「ゆとり教育」にどんぴしゃりはまった世代だ。その弊害が大学受験に影響する可能性があるらしい。理科など、他の学年と比べてごっそり抜け落ちている科目があるそうだ。それを挽回するためには、スピードと量を増やさざるを得ない。大学側が入試の際にそれを考慮するかどうか、今のところはっきり分からないという。
不公平だなぁ・・・と思うが、今更仕方がない。こんな田舎に住んでいること自体、すでにペナルティに違いないのだし。自分のキャパシティの範囲内でがんばるしかない。
先週は小学校のPTA専門部会があり、昨年度の活動報告のため出席したが、校長による今年度の学校運営方針が発表された。
ゆとり教育で落ち込んだ学力を挽回しようというのか、かなりハードなプランに感じた。
例えば小テストは90%以上の児童を100%にする、これは同じ範囲を小テストを、最終的に90%以上の児童が満点になるまで繰り返す、ということだろうが、残り10%はいったいどうなるんだろう・・・
高校懇談会では「浮きこぼれ」という新語が現れた。
地方の公立高校では、同じ合格ラインを突破していても生徒の学力の落差が激しい。授業の進度を上位に合わせれば落ちこぼれてくる生徒が出てくるし、下位に照準を当てれば逆に「浮きこぼれ」が生まれてしまうのだと言う。
浮きこぼれるほどなら、気楽なんだろうけど(笑)
本人にしてみればそれも困るんだろうな。
私は自分の高校時代をふと思い浮かべた。大学受験のない商業高校だったし、就職に有利な学校だったのでみんな気楽に高校生活を送っていた。
男子生徒は県下一の公立進学校を受験して落ちた二次募集組がほとんどだった。彼らは一様に、夢も希望もなくなった、という風情だった。ここからは大学に進学できないのである。
当時を思えば、現代の高校生は教育を受ける機会に恵まれていると思う。
だけど、その一方で、不要な勉強をせざるを得ない子もいるんじゃないかなぁと思ったりもする。
二学年が終わるまでに「進路」を決定しておくことが大学受験成功の秘訣だと先生は言う。
それになるために大学に行く必要がないとしたら、あの子は受験しないのだろうか?だとしたら高校でのこの勉強は、いったい何に役立つんだろう。
ろくに勉強をしなかった私としては、目の前の目標に向かって努力した、ということを大切に思ってほしいと願っている。
それはきっと、この先なにになるにしても、大きな自信につながると思うから。
昨日のトリトラに書いたことに基づいて、貴重な体験と(私にとっては)思いも寄らなかった「自信を持つ」ということの捉え方を知った。
こちらの日記です、文中リンクありがとうございます。
ともこさんはネットワーク・エンジニアのワーキング・マザー、家庭も子どもも仕事も持っている、私からすれば「すごい」方だ。私がもし、ともこさんほどのキャリアがあったら、自信満々の困ったちゃんになったかも・・・(笑)
そのともこさんが「自信が無い自分が好きだ」と言う。そのいきさつは日記を読めば「なるほど」と思うのだけど、だけど、「自信が無い自分が好き」と言えるって、すばらしいと思う。
それはやっぱり、(きっかけはなんであれ)努力してがんばってきた経過があるからこそじゃないのかなぁと思う。
学歴や資格の有無だけが「自信」につながるものではないし、容姿や、財産や、名声や、そんなものでもないだろう。
「おとなが読みたい絵本のペイジ」の「ねずみのとうさんアナトール」のところにも書いたが、どんなに高いところに立っても挫折することはあるものだ(と思う)
確認しなくてはいけないのは、自分自身の立ち位置であり、そこを他人と比較しても始まらない。ありがちなことには違いないのだけれど。
ともこさんのテキストを読んで、そのことを再確認した。
自信が持てないと言うのは、それよりもっと別のところにあるらしい。
ちょっとした知り合い(同世代女性子どもアリ)その人は自認するかなりの「仕切り屋」なのだけど、あとで「やりすぎた」とひどく落ち込むそうなのだ。その落ち込みようは医者に掛かるほどである。
それは、バッシングや忠告のせいもあるだろうが、そんなことで打ちひしがれてしまうくらいなら、はじめからおとなしくしていればいいのにと思うのに、彼女にはそれができないらしい。
このような両極端な人を見ていると、自信があるのと自信が無いのは裏表に向き合っているものなのかな?とも感じる。
とすれば、自信が高まれば高まるほど、ちょっとした失敗や挫折でどん底まで自信喪失するかもしれないし、自信満々に見えるのは案外弱気な自分をカモフラージュしているせいなのかもしれない。
どっちにしても、外側から見てるほど「自信」のある人なんてそういなさそうだし、一人の人の中での振り幅も大きいものなのかもしれないなぁ。
そんなことを考えて、少しは人にやさしくなれそう。
歌舞伎界の大御所市川團十郎さんが急骨髄性白血病で舞台を降板されたと言う。
一方では皇太子様のコメントが宮内庁を揺るがしている(らしい)
團十郎さんの容態はとりあえず今すぐ命に影響があると言うものでもないようだが、すでに「歌舞伎界に團十郎さんがいなくなったら」なんてことまで言う人もいる。
皇太子様の発言からも、まさに「一を聞いて十を知る」そんな感じのする推測ぶりである。
あのコメントを聞いたときは正直「え?」と思ったが、所詮他人の家のことである。ほんとうのことは当事者にしか分からない。額面どおりに受け止めるしかない。
先走るのはマスコミばかりじゃない。
私は多くの人の想像力のたくましさと、きめ細やかな詮索ぶりと、憶測を信奉する純粋さと、原因と関わり無い結論を生み出す才能と、それらをネタを変え十年一日のごとく、飽くことなく繰り返すバイタリティに感心しつつ怖気づく。
気の小さい私は問題を提起する「当事者」になった時のことを恐れているのかもしれない。
だけど、最近思う。
当事者になれば、過去の自分などきれいさっぱり忘れてしまえるのだ。
人間には「忘れる」というすばらしい能力があるのだから。
自信を持って行動する人が勝ちだよなぁと思う。
昨夜の「光とともに・・・」
同じ自閉症のお子さんに絵を描く能力が見出され、自分の子どもと比較して焦る母親の姿を見て、息子たちが小さかったころを思い出した。
思えば、この世に生れ落ちたときから彼らの戦いの火蓋は切って落とされた、そんな感じである。
昨日は家庭訪問で末っ子の担任の先生と話した。
六年前長男が六年生のときのクラブ活動の顧問で、登校班長のとき当町内の担当をしておられた先生なので、面識もありその優しい人柄に好感を持っていた。
先生のおっしゃるには、「一番になることが目的じゃないんですよ。大切なのは、一番になれたという事なんです。だから、簡単なことでいいんです。簡単なことを毎日やり続ける、一番になる、自分に自信がつく。うれしいから次もがんばろうと思う、というのがいいんじゃないかなと。」
人と比較してはいけない、とよく言われることだが、そうも行かないのが人情である。(そういう方もいるだろうが、ご立派である)
引け目を感じない人になるには、何かひとつのことで自分に自信を持つことである、と先生は言う。
自分に自信を持てる何か、ひとつのこと・・・
子どもたちと一緒に作っていきたいなぁと思う。
半身浴しながらビッグコミックオリジナル創刊30周年超特大号を読む。
巻頭カラーは「PLUTO/浦沢直樹・手塚治虫」
この方の描くロボットは実に表情豊かだなぁと思う。ストーリーはもちろん面白いのだけれど、ひとコマひとコマの人の表情に思わず魅了される。
漫画好きの友だちS子さんも、そんな漫画の読み方をするタイプで、二人その話で盛り上がった。
浦沢直樹氏の絵は、劇画タッチでなく人物もあっさりした画風である。描いている線が少ないのに、どうしてこんないい表情が作れるんだろう?
天才なんだよね~
そう、天才。心を絵に映し出すことができるんだね。
いよいよ佳境に入った(って延々続きそうだけど)「最強伝説黒沢/福本伸行」
これもめちゃくちゃ面白い。
対決のシーンがこれもひとコマひとコマ、これでもかこれでもかというほどじっくり丁寧に描かれている。
私は人と闘ったことなどないが、闘いのレクチャーを受けているような気分になる。
読み始めのころはどこが「最強」なのか分からなかった黒沢が、強い男に見えてくる。
これまでこの手の漫画を読んだことが無かったせいか、すごく新鮮で興味津々なのである。
「イリヤッド/魚戸おさむ・東周斎雅楽」は、現在の舞台が出雲地方のようだ。赤うさぎ伝説は知らないが、神々発祥の地出雲をどのように描いてくれるか、とても楽しみ。
「浮浪雲/ジョージ秋山」は、じつはすこおし苦手だったりする。
連載始まりの遠い昔、読んだころの「頭」は飄々とした遊び人という風情だった。軽妙洒脱な人という印象だったが、今ではすっかり出来上がっていて、仙人のようである。
「なるほど」と感心する物語だが、説教くささが鼻につくのは私だけだろうか。
「あじさいの唄/森栗丸」も、好きな絵だ。いい風に吹かれているような・・・そんな感じ。
何を隠そう「玄人のひとりごと/中島徹」が大好き。麻雀ネタのときはさっぱりなんだけど(笑)
今回一部の政治家の年金保険料未納問題から、複雑で人任せにしていた年金について考える機会が持てて、個人的には有意義だった。
相談窓口には主婦らが殺到しているらしい。
私もそうだが、誰しも「自分の不利益」に敏感なものだ。もっと別のところにも多くの問題点があるのだろう。私も今回は自分の興味のある部分にのみ軽く掘り下げたに過ぎない。
だが、そんな一人一人の問題意識が、大きなうねりになってよりよい方向に向かっていくものだと思う。
何にしても「これで万全」などという時は永遠にこないし、誰にでも平等にはなりえない。
しかし、投げやりにならずに(それが無理だと分かっていても)100%を目指すべきだ。
トリトラに書いたことに対してご指摘をいただいたのでここに転記させていただきます。都合よりお名前は非公開ということで・・・。どうもありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
国民年金は一律13300円(いわゆる基礎年金)で、それ以上老後にもらいたい人には付加保険料という制度も国民年金にありますし、都道府県ごとや、職能別にに国民年金基金があります。(これがサラリーマンの厚生年金に当たる部分です)。
こういった制度がありながら、広報活動がイマイチで国民が知らないような気がします。
未納者にはお知らせを出したり、支払いが遅れた人には督促出したりしているので、「知らなかった」ってありえないと思う
なかなか複雑な制度であるのと、こちらの理解不足で誤りも多かった(これからも多いかも)かもしれないことをお詫びします。ちょっと恥ずかしかったりする気持ちのエクスキューズの意味も含めて(笑)
昨日のトリトラをupしてから、補足が必要だな~と感じたことを書いておく。
さっき庭を掃きながらずっと考えていたのだけど、専業主婦の仕事の価値をどう測るかということについて。
まず、一番初めに明らかにしておかなくてはならないのは「兼業主婦と比較するのは誤りである」ということ。
年間130万円という分かれ目をどう捉えるかは今は置いて、一人で生活できるほど稼ぐには(一般的には)在宅では不可能、在宅でも家事に従事する時間が減ることは否めない。
ここを無視してしまうと、家事と仕事と両方こなす兼業主婦は二重の評価が必要になる。つまり、稼がなくても金銭的評価が生じるなら、兼業主婦は家事労働の分も専業主婦と同じように評価されなくては不公平ということになる。兼業主婦に限らず、家事を行う兼業主夫も同じである。
しかし、物理的にどうだろうか?自立できるほど稼ぐためには、家を空けるか家事の時間を短縮しなくてはならないことは必至である。
その短縮されて省略された家事労働こそが、専業主婦の家事労働に対する評価ではないだろうか。
また、専業主婦といっても千差万別である。一般的に都会地のサラリーマン家庭を思い浮かべるが、「家を空けられない事情」のある主婦というのはけっこういる。
小規模な会社経営者の妻であれば、(必ずしも仕事の受付とは限らない)来客の接待のため在宅を余儀なくされたり、自家農園を管理しなくてはならないなど。対外的には一銭の儲けももたらさないが、彼女らの働きは必要不可欠である。
三食昼寝つきのトドのような妻、というのが現実に存在するか分からないが、正直自分はそうなのではないか?時々感じることがある。
だけど、自己評価というのは曖昧で、お茶碗一つ洗うのも辛い人もいれば、毎日シーツをひっぺ返して洗うのも厭わない人もいる。
また、虚弱体質であるとか持病がある場合も「一般的な家事」をこなせない。
要するに、家事労働の価値と言うのは自己評価では成り立たない。
今度の改革案で現実的でないと言われているのは、離婚を申し立てている妻に対して、夫が年金の半分を分けることに同意するかどうか?である。
しかし私は、妻の家事労働を正当に評価できるのは夫しかいないと思っている。
例えば、三食昼寝つきのトドのような妻の、おかずはいつも惣菜でも洗濯は週に一回という働きぶりでも、夫が「家事をしている」とみなせば、立派に勤めを果たしていることになる。
また病弱で寝たきりの妻でも夫がその存在価値を認めていれば、内助の功を果たしていることになる。
専業主婦は、自分の労働に対する価値を夫以外の第三者に認めさせるためには、夫を納得させ反論させないための資料を用意する必要がある。家計簿であるとか保険・預金通帳、生活記録など。
そして、これらを見極める利害関係の無い第三者の介入と相談機関を充実させることが、今後必要になるのではないかと考えている。
だけど、こうなってくると、結婚するのが面倒になってきちゃう。結婚の意義そのものが問われてくるように思う。実際にドイツでは結婚しないで同居しながら事実上夫婦生活をするカップルが増えているらしい。内縁関係をどのように捉えるか国によっても違うのだろうけど・・・。
いずれにしても、夫の方にも意識改革が必要だが、専業主婦の方にも必要、それなら外で働いた方がいい、と言う場合に働く場所があるのか、環境の整備も引き続き行われなくてはならない。
専業主婦の感じているもうひとつの意義は「子どもの養育」もある。
これに関しては答えが出ていない今の段階では、外的な評価は望めないように思う。
しかし、多くの専業主婦が重きを置いていることは事実である。
難しい問題だなぁと思う。
これらは今回の年金改革に対する考えであり、これがもっとも適当と思っているわけではない。
コメントにいただいたように、「最低線」を定めて消費税みたいな、「全体から取る」って方向で一元化して、それ以上を望む人には「個別」で、て方向を望んでます。というのに諸手を挙げて共感した朝でありました。
年金改革案がほぼ通りそうである。
専業主婦である私がもっとも関心が高いのはやはりここ。
さし当たって離婚の危機に晒されているというわけでもないが、この先どうなるか、それは分からない。私が別れたくなくても、夫の方がそう思っているかもしれないし。
そんな不安定な夫婦関係なのか?と心配されるかもしれないが、人の心は保障できない。私の何かに絶望するかもしれないし、別に好きな人ができるかもしれない。
私が夫の「どうしても許せないこと」を見つけたら、やっぱり一緒に暮らせないだろうなぁと思う。別の恋愛は離婚申し立ての対象になるけど、考え方や生き方の違いはどうしようもない。
その時は、一緒にいれば安泰な生活と、別れて苦労する今後の生活を秤にかけるのだろうか・・・。
夫だって、妻に落ち度が無ければ慰謝料を支払わなければいけないだろうから、迷うかもしれない。
今度の年金改革では、夫の同意があれば離婚した妻も年金の半分を受給できるという。
こうなるとますます離婚が増えそうだが、この制度を先に取り入れたドイツでは逆に離婚が減っているらしい。
普通に考えると逆に離婚が増えそうなのに、なぜ?
この制度は、家庭の中で夫を支える妻の働きを評価するとともに、夫の暴力や精神的虐待から逃れたくても経済的理由から離婚を申し立てられない妻の立場を考慮している。
取り立てて強い不満は無いけれど、老後は手のかかる夫に縛られず気楽に自由に暮らしたい、と言う妻にも打ってつけに感じるが、意外にそんな風には思わないものらしい。
いざとなったら貰えるものがある、という安心感は人の心を支えるものなのだ。
同じ専業主婦として、自分の働きをお金に換算して評価してもらえたという誇りも感じる。それに応えようとするのは、自然の成り行きであるように感じる。
家庭のあり方、を見直す機会になる場合もあるかもしれない。
それにしても、長い忍耐を耐え抜いた妻には朗報だが、三食昼寝つき怠け放題のトドのような妻でも、一応権利だけは主張できるわけだから(嫌だと言えば調停だけど)よれよれのおとーさんたちが可哀想にも感じる。濡れ落ち葉にもなれないなんて。
一人で身辺を整えられないのがそもそもの誤りなのだが、ある年代までの男性はそんな風に育てられていないし、とにかく、働いてさえいれば評価されていた時代を生きた人たちもいる。
かといって「家庭での妻の働き」を計る絶対的なモノサシはない。
頼りはやはり「へそくり」か・・・・
なんだか切なくなってしまう。
長男の数学のミニテストが思いがけなく不振な成績だった。
成績が悪かったからといって、頭ごなしに叱りつけられるほど、自分の頭がよくないので(数学苦手だし)一体どうした事なのか、訊いてみた。
すると長男は「待っていました」という様に、答案を私の目の前に広げて見せてこう言った。
「すごく緊張した、なんだか分かんないけど。これさぁ、四角形の立方体に見えない?」
見ると、正六角形に対角線を引いた図形がある。
「・・・ああ、そうか、そう言われてみれば・・・。」
「でしょでしょ?どうしても、そう見えちゃって、何をどう考えればいいのか分からなくなっちゃったんだよ。」
「でも、問題にちゃんと『正六角形の』って、書いてあるよ。」
「そうなんだけど・・・。まぁ、(点数が悪かったのは)こればっかりのせいじゃないけどね。」
これまで普通に見えていたものが、ある時急に別のものに見えてしまうということは、確かにあるような気がする。エッシャーの騙し絵のように、影の面と光の当たる面が、お約束どおりに並んでいなかったり、見えないはずの柱が前に出てきていたり、そんなことが、自分の頭の中で勝手に始まってしまうというような、そんな感じ。
先ごろ「トリビアの泉」で話題になった18時間続くピアノ曲の作曲家エリック・サティに「右と左に見えるもの(眼鏡なしで)」という曲があった。どんな曲だか忘れたけど。
ものを見るとき左目をつぶって右目だけで見たときと、右目をつぶって左目だけで見たときは、違った形に見える。角度が違うからなのだけど、両目で見ているとき、二人同じものを同じ場所から見たとしても、利き目が違えば違う形に見えているかもしれない。
そうして考えると、自分が今見ているものがほんとうに「その形」なのか、分からなくなってくる。
「仔犬のワルツ」というテレビドラマで、生まれつき全盲の少女が(天才ピアニストという設定)どんな風に恋をするのか語る場面があった。それは「声」だと言う。
かって視力があったときがあれば、ものの形は記憶の底に残るだろうし、そこから想像力を使って自分の頭の中に(自分なりの)形を作り出すことができるように思う。そんな簡単じゃないだろうけど。
しかし、生まれてから一度も目でものを見たことがなければ、形は手で触れることによって捉えるしかないだろう。それを触ったとき誰かが「四角形だよ」と言えば、次回から四角形に関しては、四角形であると認識するだろうが、四角形が現実にどんな形だか知ることはありえないように思う。
見えない人は、視覚以外の五感をフル活用してものを「見よう」とするわけだけど、私はむしろ見えない方が、よく見えるんじゃないだろうか?なんて思った。
おかしな日本語だけど。
日本語を母国語とする人は、英語を母国語にする人と比べて、形状より質感や肌触りといった、非形状的な特徴に着目しやすいそうだ。(日本文化の模倣と創造/山田奨治著より)
それが、日本で見立ての文化が発達した理由ではないかと言うのだけど、そのせいで、実際に触ってみようとか、壊してみようとか、反対側から見てみようとか、あまりしないんじゃないのかなぁ。なんて、思ったり。
同じ円錐形を見ても、ただの円錐形と認識する人もいれば、やわらかそうな、とか、冷たそうな、とか、平べったい、とか、シルキーな、とか、それらが伝言ゲームのように少しずつ言い換えられていったら、最初の「円錐形」はどこかに行っちゃうかもしれない。
見えていると思っているのは錯覚なのかもしれない。
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このクレマチスは一昨年ここに移植した。去年はたった一輪しか花をつけず、場所が悪いのかなぁ?と植え替えたことを後悔していた。
クレマチスは冬の間、鉄線の名のとおり枝が茶色い針金のようになって花壇に残るので、とても見苦しい。それで、ついつい抜いてしまうことが多くて、その度に翌年五月の花の時期になるとまた欲しくなって買ってきて・・・を繰り返していた。
それにしても、一株のはずなのだけど、どうして花の色が違うのか?不思議だ。鉢植えを植え込んだのだけど、二株埋まっていたのかしら。
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先日出かけた岐阜の高山の朝市で買って戻った「おだまき」
おだまきにはいろいろな種類の花があって、いただいたり買ったりしたがなぜか着かなかった。
花が小さく地味なので朝市で見かけたとき、おだまきとは気づかなかった。
私は紫や青紫の花が好きで、花壇をそんな色の花ばかりにしたことがある。
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三年目のサフィニア、八重咲きで薄いクリーム色に近い白い花がバラのように美しい。
鉢を一回り大きくするだけなのに丈夫で長持ちな宿根草で、その上美しいのだから言うことがない。
(訂正:サフィニアじゃなくてダブルペチュニア'ドレスアップ’でした)
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東側に小さな花壇を作っているが、このところ花作りから遠ざかっていて、荒れ放題である。それでも、春になると水仙やスノーフレーク、ムスカリやクリサンセマム・ノースポールが咲きそろう。
植えっぱなしのイチゴ苗がランナーを伸ばし増えて、白い花をたくさんつけていたが夕方結実しているのを見つけた。裏側はまだ青いので採らなかったけれど、地面に何も敷いていないので食べごろになるとナメクジや団子虫に食べられてしまう。
旅日記はちょっと休んで、気になったことを書いておこうと思う。
国立ハンセン病療養所入所者の宿泊拒否事件を起こした熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が六日、閉館した。
閉館という形での責任の取り方には「逃げ」の姿勢を感じてしまう。ホテル側の言い分も出し切って、膿を出してしまうチャンスだと思っていたしね。
この宿泊拒否問題は、旅館業法に違反していると告発を受けたことから発覚したわけだけど、これをハンセン病に対する無理解からの差別行為としてしまうのには違和感を感じる。上手く伝えられるか分からないけれど、整理してみた。
ハンセン病元患者を隔離し人権を侵していたのは国である。部落差別のように古くからの因習などから自然発生的に浸透したのではなく、明らかに人為的に作り出された差別なのだ。
旅館は、宿泊名簿から団体名を知り拒否したが、それはハンセン病元患者であるからというより、ハンセン病元患者の方が宿泊し他の泊り客と一緒に入浴することによって、他の宿泊客が受けるであろうと推測される衝撃を慮ったのではないかと、私は考えた。
つまり、ハンセン病が伝染するとか、隔離されるべきであると言った差別感覚とは一線を隔している。
仮にハンセン病でなくても、同じような予後の症状の残る病気の元罹患者でも、それがはっきりしていれば旅館は宿泊を拒否したのではないかと思うのだ。「外見」による「差別」であり、区別して考える必要もあるように思う。
私はふと、自分が完治した病や怪我によって著しく風貌に変化を遂げた場合を想定した。私のこの姿を他人に受け入れさせようとするには、相当の勇気が必要ではないか。
例えば火傷なら、比較的多くの方に知れ渡っているので、驚きつつも受け入れるだろう。伝染しないことは分かりきっているのだし。
しかし、それが見たこともない症例だったら?平静ではいられないだろうと思うのだ。
そんな当たり前の人の心理を真っ向から否定して、人権感覚を問うてしまう短絡さ、あまり得策と思えない。
ハンセン病に関しては、その誤った時代遅れな隔離政策のせいで人々の認知も薄い。宿泊や入湯のようなデリケートな接触をすんなりと受け入れられるほど理解が深まっていないように思うのだ。
それを無視して人権擁護一点張りで推し進めても、今後旅館等の宿泊施設業者は、人権感覚の有無の踏み絵をさせられているような感覚で、順番が回ってきたらどうにかやり過ごすことに収拾するなど、おざなりの差別撤廃になりかねない。
千里の道も一歩から、元患者の方も擁護する方々も焦らず着実に社会復帰を進めてほしいと願う。
それじゃどうしたらよいのか?と言うことも考えた。
元患者の方々の里帰り旅行などには、ハンセン病に理解のある管理者の居る宿泊施設を利用する。宿泊するお客にも充分理解を貰えることが条件。
差別というのは、差別感を持つことそのものに問題があるのではないと思う。差別感という言い方が順当でなければ、区別感かな。自分と他人との差異は認め、それが人格を否定したり権利を剥奪したり名誉を傷つける行為に発展しなければ、それでいいんじゃないのだろうか。
他人との区別感を持つことまで「差別だ」と言わしめている現状をどうにかしなくちゃなーと思う。
ありのままの自分をまるごと受け入れてくれる社会など、どこにもありはしない。家庭ぐらいでは?
誰もが少しずつ譲歩したり諦めざるを得ない場面はいくらでもある。また、どんなに望んでも受け入れ難い人が居るのも世の中なのだ。
馬を川に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない。美味しい水を分かち合える人を探しに行こう、そんな気持ちで一歩一歩進めば良い。
忍術村を後にした私たちは、琵琶湖の反対側朽木のペンションに向かった。
三日は白川郷に入る予定であれば、近江八幡や守山、彦根周辺に宿を取るべきだったが当たったところはすでに満杯だったのだ。
夫は出発前から「忍術村は方向違いなので諦めて、比叡山でも行こうやあ」と、最後までぐずぐず言っていたが、忍術村に行きたい私は聞き入れなかった。
この「どうでもいいようなことに固執する性格」は、これまでに幾度と無く失敗を招き、その後始末は常に夫に降りかかった。
国道一号線はまたもや渋滞、琵琶湖大橋の袂の守山に着いたのは夕方5時半だった。宿のチェックインは4時からである。遅れることを伝えておこうと携帯から電話を入れた。
「今夜予約させていただいているMですけど。」
「はぁ?Mさま?ご予約入ってませんねぇ・・・」
「そんなはずはありません。ヤフーの旅ゲーターで予約して、ここにメールの控えもあります。」
「何とかしてさしあげたいですが、当方といたしましても今夜は満杯で・・・」
確かに予約完了の通知は着ていたし、プリントアウトして携帯した。しかし、そこには
<ご宿泊予約について>
ご宿泊契約は、お客様と宿泊施設との間で取り交わされます。(たびゲーターはこの契約の媒介のみを行います。・・・
と記載されている。と言うことは、契約を完了するためには連絡を取り合わないといけないということなのか?それってこちらからするものなの??
これまで宿泊先の予約は日本旅行の旅プラザを利用することがほとんどだった。予約完了すると相手側からメールが届き、予約番号の確認をするというシステムだった。
「直接話していないんだろう?それじゃだめに決まっている。」
インターネットを信用していない夫はそれ見たことかと言いたげだ。
「だって、※ご到着予定時刻の変更や追加料理等施設へのご要望は直接施設へご連絡お願いいたします、って書いてあるよ?用事も無いのに連絡しないよ、普通。」
デリカの車内に不穏な空気が澱みこむ。早朝4時過ぎからブイブイ高速道路を飛ばしてきた夫は、今日一日何が楽しみだったかって、日が暮れたら温泉に浸かってビールを飲んでドタッと眠ることだったのだ。そんなささやかな願望が見事打ち砕かれようとしているのだ。怒るのも無理は無い。
何をどう言っても怒りを買うことを予測した私は、手違いの出奔を追跡することより、次の一手を考えることを提案した。怒りの矛先は私にしか向いてこないもんね。
「どこかコンビニに止めて、携帯からガイドブックに載っている宿泊先を当たってみるわ。」
あろうはずが無かった。仮にあっても、時刻はとうに6時過ぎ、キャンセル待ちのお客で埋まってしまっただろう。旅行代理店や観光案内の営業時間も過ぎている。
作戦を変えて、見覚えのあるビジネスホテルを当たってみることにした。
守山市内のAホテルでは駅前のビジネスホテルの電話番号を教えていただけた。そこもだめだった。国道沿いの看板を読み取ってかけたホテルも異口同音「申し訳ございませんが・・・」
水口で当たったホテルの支配人は、彦根はホテルがたくさんあるので当たってみたらと教えてくれた。彦根も惨敗だった。
「忍術村に行く途中に一件あったぞ。」と夫が言うので、今来た道をUターンして再び甲賀へ。あったあった、さすがぼんやり漫然と車窓を眺めている私とはわけが違う。見直したぞ。
しかし肝心の部屋は無かった。
支配人によると、なんでも甲賀出身のJリーガーがいるそうで、毎年この時期に少年サッカーチームのイベントが開催されるため、JTBが早くから宿を押さえてしまうので、県外に出るか彦根に戻るしかないだろう、ということだった。
「とにかく飯でも食おうや。」
適当に入ったファミリーレストランの電話帳からもビジネスホテル数件当たったが、見事惨敗だった。
お腹がいっぱいになると、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。昼間のビールもすっかり醒めた夫が運転を代わり、とにかく滋賀県内を出て、岐阜に向かおうということになった。
「なけりゃサウナにでも泊まるさ。ホテルが見つかったら泊めてもらえばいいし。」
ネオンサインの明るいホテルに泊まることも考えたが、中学生と高校生の多感な年頃の子どもを抱える身である。末っ子に「ベッドがぐるぐる回るんだよ~」な~~んて報告を学校でされてもたまらない。ホテル街は無言のままやり過ごした。
そのうちに暢気な私はすっかり眠り込んでしまった。目覚めると、午前零時、車はとある「道の駅」の駐車場だった。
夫も仮眠したようだが、自分の足がクラクションを鳴らしてしまい目が覚めたので、これからもう一走りするという。子どもたちもすっかり眠り込んでいる。
夫はそのまま車を走らせ、三日午前2時に高山市内のファミリーマートの駐車場の大型トラックの脇にデリカを止め、ビールを買って飲むとようやく眠った(そうだ)
スカッと気持ちよく目覚めたのが午前6時、さぁ!お待ちかねの岐阜だよ。
帰宅後「末っ子の見て見て聞いてノート」にはこう記述してあった。
たびにでました。のじくをしました。りょかんもホテルもなかったので、のじくをしました。
「Sちゃん、のじく じゃないでしょ。のじゅくよ?」
情けない気持ちでいっぱいの親の心と裏腹に、車内泊は子どもにとって予想外に魅力的な出来事だったらしい。それは高校生も中学生も同じらしかった。ホッとした。
今回得た教訓は、人とは話をしなくちゃだめだなぁということ。
ビジネスホテルの空き室を伺った時、電話では必要な情報以外知ることが無かったが、直接話をした方からはそれに付随する情報を得ることができた。目を見て話すことがいかに大切かということを知った。
それと、夫はとても頼りがいのある、心の広い人間であるということも改めて。(おまけ)
●凸凹珍道中第一日目 宿はファミリーマートの駐車場?はこれにて終了、次回第二日目お楽しみに(楽しみかしら)
忍術村のてんやわんやのおばあさん 凸凹珍道中第一日目 宿はファミリーマートの駐車場?(中編その2)
忍術村は琵琶湖の南三重県との県境にほど近い甲賀の山奥に位置している。大きな駐車場はなく、警備員が空き地の臨時駐車場に誘導してくれた。
この忍術村は旅行情報誌で見つけたが、Webで検索すると戸隠の忍者村と三重県伊賀の忍者村、続いてこの甲賀の忍術村がヒットした。先の二つの忍者村の規模は知らないが、ここはちょっと寂れ加減の、地元民の行楽地という風情に感じた。
だけど私はこういうちょっと寂れかけた行楽地が大好きだ。
ウン十年前は稼動していたであろう埃だらけポップコーン販売機や、すでに主の居ない小動物の小屋、雑草に覆われている花壇の周りの、朽ちかけたガーデンセットなどから、通り過ぎた人々のざわめきやそこを被っていた熱気とか気分とかが、まるで自分もその時その場所に居あわせていたように一瞬蘇る。
それは一陣の風とともに瞬く間に吹き抜けていってしまうのだけれど。
どこか遠い見知らぬ町を訪ねて歩く愉しみは、そんなところにあるのかもしれないと思う。
村内では忍者の衣装を借りることができると言うので、末っ子に勧めたが断られた。それどころか、末っ子は予想外に忍術村を喜ばなかった。思っているよりずっと成長してしまったのだと少しがっかりした。
私は自然志向というわけでもないが、子どものころから洞穴や林の茂みや高い木の上や、がけを滑り降りたりよじ登ったりする遊びが好きだった。
廃屋も好きで、見かけると忍び込んでみずにいられなかった。部分的に壁がぶち抜けていたり、床が落ちて基礎だけになっているところからもぐりこんで、別の部屋にたどり着いたりするのが楽しくて仕方が無かった。
私が子どもだったら、九の一に変身して駆け回ったかも・・・忍術村で遊びたかったのは私だったのかもしれない。
末っ子も同級生や遊び仲間が一緒だったらもっと楽しかったろうになぁ。
などと感慨に耽ってばかりもおられず、お昼もとうに過ぎたのでバーベキューを注文しようと言うことになった。
村内には「青空座敷」があり(何のことは無い、ござを敷いた上にテーブルが置いてある)近江牛のバーベキューができるのだ。
注文をしに厨房のある小屋の受付に行くと、そこには人だかりが・・・。注文をする人と、出来上がるのを待っている人たちだった。バーベキューの他にカレーライスとうどんとラーメンもあるらしい。
受け付けているのは70歳代のご婦人、奥の厨房には50歳代のご婦人が二人、盛り付けには年齢不詳のご婦人が一人、配膳は氷川キヨシ似の忍者のコスプレのアルバイトのお兄さんという運営組織である。
日ごろは(たぶん)70年代のご婦人が一人で切り盛りをしていると言う感じだ。GWで混み合うのを予想して人員を調達してきたいわば「素人の集まり」であることは容易に想像できる。
注文を受け付けると番号順の伝票にお客の苗字を記入しているのだが、どうやらすでに配膳した伝票と、まだ商品を渡していない伝票とか混ざり合ってしまっていると言う状況のようである。注文をするばかりなのに時間がかかってしまった。
こんな局面に出会うと、気が短い私は一気に機嫌が悪くなってしまう。他に店があればできるだけ待たされない方を選ぶ。しかし村内にはあとはフランクドックだのフライドポテトだの、およそ昼飯にならなさそうなファストフードしかない。並ぶしかない。
並んで店の人たちの仕事ぶりを見るとも無く見ていたら、だんだん愉しくなってきた。
受付のご婦人はおろおろしながらも間違いなく仕事をこなしている。頼りにならないのは氷川某似のアルバイトなのだが、笑顔と素直さは買えそうである。年齢不詳の盛り付け係のご婦人は、周りの空気など一切気にせず、ただひたすら盛り付け係に徹している。大きなお尻でお盆をひっくり返しそうだが意外に大丈夫なのだ。
だけど、伝票はどんどんたまるし、相変わらず混じり合っている。もう何がなんだか分からない。
そのうち、注文を取り消す人が出始めた。私が注文したときにすでに待っていた方だ、ひょっとしたらこ一時間ぐらい待っているのかも・・・。怒り心頭ではないのか?
ところが、誰一人として怒る人が居ないのだ。おじさんも奥様も若い人も、注文を取り消す人も確認する人も、みな柔らかな関西弁で用件を告げ、一言のいやみや皮肉も残さずに去って行く。
相手がお年寄りということもあるだろうけど、お昼を食べ損なってお腹も空いているだろうに、懐が広いなぁと感心してしまった。「気が短くて身勝手な関西人」という偏見が「懐の広い関西人」に転じたという短絡ぶり。
そうして、いつも待たされたと言っては不機嫌を顔に出している自分が少し恥ずかしかった。
「あのぉ、○○ムラですが、時間が無いのでもういいですわぁ。」
「ああ、そうですか、そうですか、すみません、すみません。お金をお返しいたします。いくらでしたっけ?」
「うどんがみっつです。1500円でしたわ・・・はい、たしかにぃ。」
立ち去る○○ムラさん。
「ああ!お名前聞いてなかったわぁ・・・ああ、どうしよう・・・あの、あの・・・」
おばあさん声が小さい。
「キムラさんて言ってましたよ。」と私。
するとキムラさんが振り向いて「ナカムラです。」
跳んだ赤っ恥^^;;
そんなこんなでどうにかバーベキューにもありつけ(たいへん美味しいお肉だった)、夫はビールも飲んだので運転は私と交代、今夜の宿を目指して甲賀の忍術村を後に、琵琶湖大橋を目指したのが3時半過ぎだった。
(後編に続く)
二日未明一家五人を乗せたデリカは国道9号線宍道ICから中国縦貫自動車道に乗り松江へ。バイパスを経て米子自動車道に上り、中国自動車道へ。
兵庫県加西のPAで朝食を摂ったのが午前7時、吹田JCTで名神高速道路に移り「忍術村」の最寄IC栗東へ。国道一号線に降りた時は午前11時を過ぎていた。
いったいどうして?!4時半に家を出て、わずか2時間半で兵庫県まで来たのに、バランスが悪すぎる。
難所は京都ICである。
昨年里帰りした私と子どもたちは迎えの夫と愛知県で落ち合った。長良川沿いの旅館に泊まり、名神高速道路を利用して、つまりこの逆のルートで帰路に着いた。
その時も、すいすい流れのよかった道路状況の中で、唯一、京都ICの前後は大渋滞でにっちもさっちも行かなかった。
「あ~路側帯走っている車がいるよ~」
「なにわナンバーだ」
「そういえばテレビで関西人の交通マナーの悪さを立証する番組をやっていたな。気が短いのかな。」
これまで九州や四国でも自動車道路は数々利用したが、料金所の手前付近や合流地点ならいざ知らず、普通に路側帯を走り抜ける車と言うのは見たことがなかった。
この時感じたせっかちで身勝手な関西人、という偏見はあとで覆されることになる。
私と夫が山陰より西方面ばかり旅先にしたのには、「渋滞が大嫌い」なせいでもある。何度も九州に出かけながら(天ヶ瀬は三度)福岡に立ち寄っていないのも、どんたく祭りがあるGWの博多は人でごった返しているだろうからだ。
元より、名所見物には興味は無い。祭りやイベントは人を見に行くようなものなのでついつい敬遠してしまう。
いよいよ行くところがなくなって近畿方面に向かったが、渋滞に巻き込まれないためには人が眠っている間に走るしかない。これまでも、夕食後一眠りして真夜中や明け方に家を出ている。
今回の計画では、4時半に家を出て5時間後の10時前に滋賀県入り、遅くとも10時半には目的地の甲賀忍術村に到着する予定だった。
ところが京都でこの渋滞である。車内はすっかり雲行きが悪くなる。
栗東ICから国道一号線に降り立ったのが午前11時。
「忍術村ってのは、どこにあるんだ?」
「えーっとね、栗東から10分だって。」
それなのに、行けども行けども標識が出てこない。そんなにマイナーなところなのか?
「ないぞー?充分(十分)の間違いじゃないのか?」悪徳不動産屋か。
「あ、『栗東ICからR1の大野より車で約10分』だ^^;;」地図が読めない女なのである。
「・・・・」
夫の眉間の皺が深くなる。
おまけに国道一号線はまたまたのらりくらりの大渋滞、忍術村に着いた時にはお昼を回っていた。
(中編その2に続く)
前編はこちら
ゴールデンウィークの家族旅行計画は年が明けてまもなく開始された。
何もこの混雑する時期に出かけなくても良さそうなものだが、夫の勤め先は土曜日は営業で、祭日も出勤することが多い。ゴールデンウィークもお盆もカレンダー通り、お盆とGWを逃したらまとまった休みは取れない。
それも二泊三日が精一杯である。北海道だの沖縄だの海外に出かけることができるのは、定年後かなぁ・・・。定年があるのかどうかも分からないけれど。
だけど私たちは旅が好き。夫は家族を積んだデリカ(8年目)を転がして気ままに、ただ遠くに出かけたいだけなのかもしれない。
松が明けた翌月に、行き先を岐阜県に絞り五月三日の宿を白川郷で確保した。ところが今年は二日から休みが始まることに気づいたが後の祭り、二日はすでに満杯だった。やっと取れた宿はそのままキープして、二日の行き先を検討し途中の滋賀県に決定、この宿探しはかなり苦労した。
これまでに中国地方と四国は全県制覇、九州も家族で出かけていないのは長崎と佐賀と福岡のみとなり、一昨年あたりから近畿地方に足を延ばすようになった。
琵琶湖周辺は新幹線で通り過ぎるばかりで立ち寄ったこともなかったし、昨年里帰りのついでに愛知県明治村に寄り、ほど近くの高山に回りたいのをぐっと堪えたので、昨年出かけた鹿児島に行くことを考えたら岐阜県など近いものだろうと計画したのだ。
yahooの旅ゲーターでやっとこさっとこ琵琶湖周辺のペンションを見つけ予約完了、証拠のメールをプリントしたのを持って、五月二日未明、意気揚々とデリカを発進させた。
(中編に続く)
日記才人に登録して一年以上過ぎた。最近は才人メッセをいただいたり送信したりするお相手も増え、文中でリンクしていただいたり、とても楽しく参加させていただいている。
私は元来「どこかに所属する」のが苦手で、インターネットのよいところはそんなしがらみにとらわれないで済むこと、これはこれまでにも何回か書いた。
Veronica's Houseの「about me」に、「アダルトなサイトを目指す」と書いているので、時々アダルトコンテンツがあるのかと勘違いされたり(サイトを立ち上げたばかりのころ、ベロニカというキーワードのポルノのコンテンツがあるようで、一時的にアクセスがグーンと伸びたことがある。申し訳なかったなぁ)するが、アダルトな関係というのはどういうことなのか。
一言で言えば、つるまない、群れない、馴れ合わない、はまり込まない、踏む込まない関係であること。
もちろんこれと反対の関係が悪いと言うことではない。望んでいることと違うだけである。
だからといって他人との関わりを望んでいないように思われてしまったらとても困る。
このような人間関係は「希薄」であると言う方もいる。
そうでもないと思う。
例えば道を歩いていて、誰かが転んだらすっと手を差し伸べる。親しい人であろうとなかろうと、関係なく。
こんな感じ。
例えば階段を駆け下りていて誰かとぶつかりそうになる。「ごめんなさい。」とにっこり笑って道を開けるような、そんな感じ。
例えばコンサートに行って同じ歌を聴いて踊って「じゃあまたね」と別れる、そんな感じかな。
電話で声を聞くことなんてないけれど、一日に一回、少なくても一週間に一回ぐらいは「どうしているかなぁ」と思う。
袖すりあうも他生の縁、こんな言葉がぴったりな日記才人は私には向いているかも・・・。
まぁ何処にいても「居方」によって違うのだろうが(笑)
五月二日から四日まで出かけますので更新はお休みします。
皆さんもよい連休をお過ごしくださいね。